コラム

「ビジネスの基本は”相手目線”」というけれど、そもそも「相手目線」って何?

ビジネスの基本は“相手目線”」──とてもよく聞く言葉です。

私たちアーティエンスでも、特に新入社員をはじめとする若手向けの研修時に、よくそのフレーズを活用します。  

ところがとある研修時にて、ひとりの受講生の方から、

相手目線って、何ですか。よく解らないんですけど」   という質問を受けました。

私:「具体的に、“相手目線”のどういう点が解らないの?」

受講生:「だって、“相手目線”で考えるって言われても、考えるのは結局自分じゃないですか」

私:「そうだね」

受講生:「自分で考えている時点で、それは相手目線ではなくて、自分目線になるんじゃないですか?──たとえ、相手のことを考えていたとしても、目線は自分のものだと思うんですけど」

──さて、ここまでお読みになった皆さんは、この受講生の方の主張をどのように捉えられたでしょうか。

今回は、この「相手目線」、「自分目線」と、そこから派生しての「客観」、「主観」についてお話していこうと思います。      

1) 「相手目線」≒客観を証明することは難しい?

「相手目線」という言葉ではありませんが、それに類する言葉である「客観」について、その言葉の存在を疑った著名人は数多くいます。

例えば、「神は死んだ」の言葉で有名なニーチェ、哲学史上の「コペルニクス的転回」を発したカント、そのほかヒュームフッサールといった思想・哲学の巨人たちも、(それぞれの主張や言い回しは若干異なりますが)「客観」の存在を証明することの困難さ(または不可能さ)について言及しています。

フッサールに至っては、「客観なるものはない」といったニュアンスの表現までされているくらいで、つまりは、人が普段行っている「客観」の定義についての否定的な見解は、かなり古い時代からあった──ということですね。    
なぜ「客観」を証明することが難しいのか

そもそも、“主観”も“客観”も「認識」されてこそ成り立つものです。

普段の日常生活においては、「認識されない主観」や「(誰からも)認識されない客観」というものについて議論しようとしても、そこからの発展性はあまり見込めません(もちろん例外もあるでしょうけれど)。

ですが、逆に「客観を認識」しようとすると、それは意外に難しいことに気づくことでしょう。

例えば私たちの目の前に顔を真っ赤にして怒っている(ような)サラリーマンの人がいたとして、私たちはその人をどこまで客観的に認識することができるでしょうか。

その人は、本当に怒っているのかもしれませんし、もしかしたら全く違う感情であるのかもしれません(笑いをこらえて顔が真っ赤になっている等)。

「実際に、その人に聞けば解るんじゃないの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。ですが、果たしてそうでしょうか。

その人はもしかしたら本当のことを言うのが気まずくて、嘘をついたりごまかしたりするかもしれません。もしくは、その人自身も自分の無意識的な感情に気づいていないことだってあるでしょう(その人が話す内容は、その人の「主観」であって、私たちが求めている「客観」ではない可能性がある)。

つまり、私たちは客観を「予想」することができたとしても、それを完全に「定義」することは(ほぼ)不可能なのです。        

2)「客観」は、「主観」の中にある!──カントの「コペルニクス的転回」

では、定義することのできない「客観」自体を考えることは不毛なのか──。

「そんなことはない」ということを、私たちは感覚的(本能的)に知っています。──世の中が人々の「主観」だけで溢れてしまったら、それこそ大変なことになってしまいそうですしね。

前に紹介したカントという人物においても、「客観」という概念のあいまいさを認識したうえで、「客観は認識可能」としています。 どういうことか、カントの主張を追っていきましょう。      

「客観」は、他者と共感しながら育まれる

ここまで話した通り、人は「客観」を正確に認識することはできません。これは、カントも同様の見解です。   「しかし」とカントは続けます。人は客観を正確に認識できないとしても、「それに客観性がある」ということを認識できることはできる、とカントは言います。

どういうことかというと、先ほどの例に出た「怒った(ような)サラリーマンの男性」は、まず私たちの主観に現れますが、私たちはそこから進んで、その様子を他の人と認め合うことができます。

例えば私が「あのサラリーマンの男性は、怒っている」と認識したときに、周りの人も同じように感じたとしたらどうでしょうか。だれもが認めるのだとしたら、「あのサラリーマンの男性は、怒っている」ということは「客観性がある」と言えます。   つまり、客観は正確には認識不可能ですが、それが「主観」に現れれば、私たちは他者とそれを共有しながら確認していくことができるので、「客観性があるモノとしては認識できる」、ということになります。

これを言い換えると、「人間は世界に対してまず主観をもって認識していき、他者と共感していきながら『客観性のある世界』を作り上げている」と言えます。──「客観」とは「主観」のなかに作られるものなのです。    

    これまでの世の中は、「客観は主観の外にある」という考えが一般的でした。

それをカントは、「客観は主観の中にある」と言って概念を覆したのです。──これが世にいう、カントの「コペルニクス的転回」です。        

3)「客観」「相手目線」をイメージする行為は、「主観」の広がりにも繋がる

    普段、私たちは「自分目線」、「相手目線」について、以下のようなイメージを持つことが多かったのではないでしょうか。    

    ですが、このイメージのままですと、人は「相手目線」を認識することはできません。 (「ちょっと君の目線を見たいんだけど、見せてくれないかな」「うん…、いいけど、ちょっとだけだよ」みたいなコミュニケーションが取れるのなら、また話は別でしょうけれど)     これに対して、カントの「客観は主観の中にある」という考えに沿ってイメージ化するとしたら、以下のように表現できるでしょう。    

私たちが「相手目線」を感じ取るとしたら、それは「自分目線」(≒自分の主観)の中で行われる──ということですね。──とは言うものの、上記図の「相手目線」の領域は、対象の相手が持つ主観の領域と比較すると、かなり狭く、かつ局所的です。

では、相手目線をより多く感じ取るようにするためにどうすれば良いでしょうか。

相手との距離感をもっと近づけていく(関係性を深め、目線を合わせていく)」という考えや、「自身の主観の幅を広げていく」という考えにも発展していけそうですよね。

ここで注目しておきたいことは、「相手目線」をより意識していく為には、「自分自身も変化していく」ことが求められるということです。

自身の思考や価値観を固定したままで、より「相手目線」を深めるということはもはや不可能とみるべきでしょう。その一方で、相手目線を追求することはまた、自身の主観の広がりや意識変革を後押ししていくことにも繋がります。   自身の主観が広がれば、更にまた多くの人の「相手目線」に気づけるようになり、それは新たなコミュニケーションや、(ビジネス上で言うならば)共働の機会に繋がっていくことでしょう。

こうして整理してみると、「ビジネスの基本は相手目線」という言葉の持つ大切さも、一層深く感じられるのではないでしょうか。

  ◇ ◇ ◇   

研修終盤の休憩時間に、「相手目線って何ですか」と問題提起をされた受講生の方が私にこう話しかけてきました。

「さっきはすみませんでした。──なんか、自分ってめんどくさいですよね。どうでも良いことに変にこだわっちゃって」

私は、「そんなことはないし、その問いについてクラス全体で共有し考えてもらったことによって、参加者はより深い思考をもって”相手目線”に向き合えたと思う」──といったことをその受講生の方に伝えました(実際、参加された方々もその問いを受けてから、研修への関与度合はより高まったように感じています)。

その方は少し照れくさそうにしながらも、先ほどの緊張した表情はなくなり、講師(私)との距離感も若干縮まったような印象を感じさせてくれました。

その方と私のお互いに向けての“相手目線”の領域もまた、広がっていった──そんな場であったのかもしれません(もちろん、そう感じるのも私の「主観」ではありますが)。

本記事の内容が、皆様の人材育成活動において少しでもお役に立てることを、心より願っています。        

アーティエンスの新入社員研修では、相手目線を理解できる研修も提供しています。

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